ベルギーの世界遺産ベギンホフとは?当時の生活からわかる、修道院との大きな違い

BELPLUS編集部
世界遺産

ベルギーを中心に、オランダやルクセンブルクに中世から存在する「ベギンホフ」という建物群。日本では「べギナージュ」または「ベギン会修道院」と修道院をつけて呼ばれることが多いですが、実はベギンホフと修道院は似て非なるもの。二つの違いをわかりやすく説明しました。

「ベギンホフ」は「ベギン会修道院」や「べギナージュ」、または単に「修道院」と呼ばれることもありますが、これらは全て同じです。ここではオランダ語の読み方に近い「ベギンホフ」を採用しています。

ベギンホフとは

ベルギーの地図を見ていると「ベギンホフ」と呼ばれるレンガに囲まれた一角があることに気がつきます。ベギンホフとは中世の時代からベルギーに存在した、女性が集まって共同生活を送っていた建物群のことです。

入り口の門。このようなレンガの壁が、ぐるりとベギンホフを取り囲んでいました。

入り口の門。このようなレンガの壁が、ぐるりとベギンホフを取り囲んでいました。

ベギンホフはベルギー国内に複数存在し、そのうちいくつかは世界遺産としても登録されています。中でもブルージュのベギンホフアントワープのベギンホフルーヴェンのベギンホフの3つは観光名所としても人気です。

多くのベギンホフは、そこで暮らした「ベギン」と呼ばれる女性たちの住居だけでなく、教会や専用礼拝堂、教育施設、小さな病院などもあり、そこだけで生活を送ることができるようになっていました。

ブルージュのベギンホフ内にある小さな教会。現在はベネディクト会の修道女たちが祈りを捧げています。

ブルージュのベギンホフ内にある小さな教会。現在はベネディクト会の修道女たちが祈りを捧げています。

ベギンホフでの生活は、貧しかった?

ベギンホフは「親元を離れた女性が集まって暮らす場所」という点から修道院と混合されることが多く、そのためベルギー国内でも「ベギンホフの女性は(修道院のように)質素で貧しい暮らしを強いられていた」と考えている人もいます。

ですが実際にベギンホフを訪れてみると、まず驚くのが建物の美しさと丈夫さ。中世に作られた彼女たちの住まいは、保存状態がよかったこともありますが、現在でも実際に人が生活できるほど強固に作られているのです。また、家の門前には質素ですが可愛い装飾が施されていたり、部屋がとても大きかったりなど、どうしても「あした食べるものも無い暮らし」とは結びつかない内容です。

ルーヴェンのベギンホフでは、ベギンと呼ばれた女性達の自立した暮らしぶりを垣間見れます。

ルーヴェンのベギンホフの集合住居部分。当時のベギン達の暮らしぶりが垣間見れます。

中世当時、間違いなく社会的に弱者であった女性のために、あばら家ではなくこのような美しい建物を作るのはどうして?そのような疑問から、今回ベギンホフに関する文献をいくつか読んでみたのですが、様々な面から修道院とは全く異なる生活を送っていたことに気づかされました。

ベギンホフが誕生した背景 – 社会の受け皿として

12~13世紀のベルギーでは、女性が独身のまま生活をするための働き口はほとんど無く、時期がきたら結婚をするか、結婚せずに神に身を捧げるために修道院に入るかの選択肢が一般的でした。さらに、もし結婚することで生活の安定が叶ったとしても、男性が十字軍の遠征や病気等で亡くなった場合、残された女性には修道院に入る以外の道はほとんどありませんでした。

血なまぐさい中世のヨーロッパ史。十字軍の遠征だけでなく、地域同士の小競り合いや伝染病、事故などで簡単に命が失われる時代でした。

中世ヨーロッパ時代のブルージュ。十字軍の遠征だけでなく、地域同士の小競り合いや伝染病、事故などで簡単に命が失われる時代でした。

ですが、修道院に入るために修道女になるということは、これまでの生活や築き上げた財産を全て放棄し、神に仕える身として自分の欲望を断ち切り、完全に俗世の人生をリタイアしなければなりません。そして一旦修道女になった後は、元の生活に戻る可能性はほとんどありませんでした。

中世の封建的社会の中で、当時の女性がどんなことを考えていたのかはは知るすべもありません。ですが多様な生き方を求める現代の女性と同じように、自由を捨てずに生きたい、できれば他人に経済的に頼らず、自分の才能や技術で生活していきたいと思っていた女性もきっといたはずです。

また、普通の女性から突然、二度と俗世に戻ることはできない修道女になるという変化は非常に大きく、特に裕福な家庭の独身女性(すぐに男性に頼らなくても何とかなる)にとっては、結婚相手が現れるまでに、受け皿になってくれるような場所が社会的に必要でした。

そのような背景から設立されたのが、ベギン会という女性達の互助組織です。このベギン会は、ベルギーに多くの「ベギンホフ(ベギン会修道院、ベギナージュとも)」と呼ばれる女性の生活拠点を作りました。

ブルージュのベギンホフの入り口。美しい花が咲く中庭を中心に、白い壁の建物が周りを囲んでいます。

ブルージュのベギンホフの入り口。美しい花が咲く中庭を中心に、白い壁の建物が周りを囲んでいます。

ベギン会は修道院のように宗教に基づいて作られた組織ではなく、その地域の女性たちが個別に立ち上がり形成した会であり、いわば婦人会や女性会と呼ばれるものに近い形でした。そのため、修道院のように厳しい戒律を守って禁欲的・道徳的な生活を送ることが目的というよりも、様々な境遇の女性同士がお互いの身を助け合い、自給自足の生活を送ることで経済的な自立を目指していました。

外の世界との行ったり来たりは自由だった

この壁より向こう側は「ベギンホフ」であることを表すサイン

この壁より向こう側は「ベギンホフ」であることを表すサイン

一般的に、ベギンホフの周りはぐるりとレンガで覆われており、外の世界と隔てる役割を果たしていました。ですが門の入り口は開いており、ベギンは日中であれば壁の内と外を行き来することは柔軟に行われていました。これだけでも、厳格に外の世界から隔離された修道院で暮らす修道女たちとは違う生活を送っていたことがわかります。

ベギン女子内格差あり

私有財産を捨てる代わりに、一生住むところの面倒を見てもらえる修道院とは大きく異なり、ベギンは財産を捨てる必要はなく、代わりにベギンホフ内の住居は自分のお金で賄うことになっていました。

裕福な家のベギンは、入居時に親に購入してもらった広々とした個室に住む一方で、そこまでのお金を用意できない家のベギンは、共同部屋を借り、家賃を払い続ける必要がありました。そして、教育を受ける時間以外は、ベギンホフ内で年長者の手伝いをするなどの雑用を引き受け、家賃を捻出していました。

ベギン会修道院にはドミトリータイプから個室まで様々なタイプの住居がありました。

ベギン会修道院にはドミトリータイプから個室まで様々なタイプの住居がありました。

ですが当時、ベギンになれる=女子寮で身の安全は保証されながらも外の出入りも自由、さらに自立に繋がる教育も受けられるというのは、若い女性の生き方としてはかなり条件がよかったはずです。少なくとも、修道院から一生戻ってくることができない修道女の人生とは比べようがありません。

多くの女性には修道院に行く選択肢しかなかったことから考えると、雑用をしながら家賃を払うベギンも、少なくともベギンになれる人生を選べる立場であったことから、社会の最底辺ではなかったと考えられます。

ママから受けるトレーニング

ルーヴェンのベギンホフには「ベギンホフのママ(begijnenmoeder)」と呼ばれる皆のママ的な存在の女性がおり、彼女が自立のためのトレーニングをベギン達に与えていました。習得レベルによって服装が異なり、トレーニングを終えて卒業すると、ベギンの象徴である白いケープをもらえて、名実ともにベギンとして認められます。

自立のための職業は多岐に渡りますが、最も人気だったのが、診療所(Infirmary)の助手として働く道。彼女たちの選んだ職業や生活ぶりを知るなら、ブルージュのベギンホフ内にある「ベギンホフの家」博物館へ。小さな博物館ですが、当時の女性の職業トレーニングや共同生活の様子がそのまま残されています。

ベギンホフの家(博物館)の入り口

ベギンホフの家(博物館)の入り口

外との競争に勝つ!商売上手なベギンたち

自給自足の生活を支援し、経済活動が自由なベギンホフの中では、自分の才能や技術を生かして手広く事業を広げ、中にはひと財産築いた”やり手”のベギンもいました。

その中でも、ルーヴェンのベギンホフ内でブロード織り(羊毛でできた目の詰んだ織布)事業を営んだとあるベギンは、外の世界にも販売網を広めた結果、強力な競合として現地の織物事業会社から目をつけられるまでになったそうです。

ブロード織りはベギンホフ内で栄えた産業の一つで、工程で多量の水を使うため、ベギンホフの川沿いで多く営まれていました。

ベギンホフをもっと知るためにおすすめの本

参考文献:Ocharme die arme begijntjes by Etienne Franckx

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